2007/03/21

入学の動機

高校時代の、ある友人の考え方や行動がすごく素敵。
だけど、私が彼女と同じように行動してみても周りを戸惑わせるばかりだ。

今月15日、私はお祝いと一年間ゼミで過ごしたお礼を伝えに学校へ行った。
私と彼らには心理的な距離があったことは認める。
見返りを求めてたわけじゃないけど、見返りがなければないで寂しく感じたことが、なんだかやりきれない。

私が冒頭の友人を特別に感じるのは、行動と本心が伴っていて裏表がないから。今も昔も。
彼女は、いじわるな冷やかしや嫌味を言わない。人を適当にあしらったり見下したりもしない。


たとえ、彼女自身が不本意な扱いを受け続けても、それを他人に仕返すことはなかった。
ただ、みんなと仲良くなりたかったから、どんな形であっても話しかけてもらえたことがうれしい、
と彼女が私に言い切ったことが忘れられない。

言ったもん勝ちの、えげつない世の中にがっかりすることもたくさんある。
考えるだけ苦しいのは分かってる。

彼女と同じ教室で過ごした昔、個人と周囲の決して交わることのない思いを目の当たりにした。
私はその光景を受け入れることができなかった。
今の学校で、このやりきれない思いに対する教えを乞いたいと思った。

この選択は正しかったのだろうか、と、今も気持ちはくじける。
でも、高校時代に今の学校を見つけられなかったら、私は一番望まない世界に身を置いたままだった。
心を殺しながら生きることは、死んでるのと同じ。
少なくとも高校時代、私は死んでた。
現在も、その時代に気持ちが戻ることがある。
本当の自分を取り戻したい。


明日は、四月からの授業についてオリエンテーションが行われる。
来月2日から本屋でバイトも始まる。
時間もある今のうちに、いろんな気持ちを書き留めておこう。

2007/03/20

東京で父がいろいろ打ち明けてくれた。
田舎では、私たち親子の在り方を珍しがられることが多い、って。

私たちは今、別々の県にいて、お互い離れて暮らしている。
田舎では私も、なぜ親のそばにいてやらないのか、なぜ留年までする意味があるのか、
もう退学して田舎帰ってくればいいのに、と、さんざん言われる。
でも、父だけはいつも私の味方だ。

そばにいなくて寂しいけど、離れてるからといって愛情が薄れるわけじゃない。
どこにいても離れてても、お互いを気にかけることを忘れずに、元気でいてくれればいい。
こう言ってくれる。


ときどき、自分の進路選択が間違ってたんじゃないか、って自信なくなるときもある。

鹿児島に残った友人達から聞く、高校時代とほぼ変わらない人間関係が引き続き自分達の身近にあるという、とても魅力的な環境。
就職に有利なネームバリュー(偏差値とか)にコネ、社会的に受け入れられやすい学科の専攻。


私は人よりたくさんの迷惑と心配と、たくさんの学費を親へ負担をかけた。
それ以上に、親子の確執をお互いが覚悟したときは、本当に、本当に苦しい思いをさせた。

今だって、現在進行系でお互いが苦しい。
それでも、いつかお互いが笑いあえる日が来るから、今を捨てないで生きていこう、
と、約束した。

2007/03/19

この便で帰る

東京駅から帰宅する。

今回は、いつもよく話をする親戚とは別の人達と話せたことが、大きな収穫だった。
その人達は私の祖父の妹達で、つまり私の大叔母にあたる。

この母方の祖父は、遠い昔に若くして亡くなっている。
彼が亡くなった当時、私の母ですら幼かったというから、私なんて影も形もない時代だ。

大叔母の一人は、私に立派な写真をくれた。
それぞれが他家へ嫁いでもなお、祖父への慕情の尽きない大叔母達が私をこんなにも受け入れてくれる。
私のこの血とルーツに感謝する。

世間は狭い

今回、私と父が東京を訪れたのは法事のためで、
昨日、東京や東京近辺に住む、私の母方の親戚達も集まった。

その親戚の中に、関東で教員をしている男性がいて、
偶然にも彼は、私の通う大学で同じゼミを受けていた学生の、高校時代の恩師だということが分かった。

そのクラスメートは、今年、つい3日前(3月15日)に卒業したばかりだ。

ちなみに男性は、私の母の従弟にあたる。
世の中、誰とどこで繋がってるか分からない。

2007/03/17

東京行き

今日から3日間、東京に滞在する。
17時に親と東京駅で待ち合わせる。
会えたら、まず、米を送ってくれたお礼を伝えよう。

戦争時代の我が家

15日のNHKの夜に放送されたニュースの中で、
去年12月上旬に日本でも公開されたハリウッド映画「硫黄島からの手紙」の舞台となった、東京都硫黄島の映像が流れた。
日米両軍の元兵士達と、米軍側からは現役の兵士も交えて、合同慰霊祭が行われたときの映像だった。
恥ずかしながら、私が「こっちの」硫黄島を知ったのは成人になってからだ。


昔、メール交換していた(いわゆるメル友)から教えてもらうまで、
硫黄島と言えば、鹿児島県三島村に位置する同名の「硫黄島」しか知らなかった。
ちなみに鹿児島の硫黄島は、島から流れ出る、鉄分を含んだ温泉だか土(?)だか硫黄のために、島近辺の海の色は茶色い。
中学の頃、この島にキャンプに行った友人達(私は体調が悪くて参加できなかった)が見せてくれた写真には、
赤茶色い海で遊ぶ友人達と、そのバックに煙の上がる山の光景が写っていて、茶色と青い海の境界も確認できた。
これらの光景の不思議さも手伝って、この島の(写真の)印象は、やけに鮮明に覚えている。
この硫黄島には誰もが気軽に足を運ぶことが可能で、もちろん軍事基地もない。とてものどかな島だ。



さて、冒頭に戻って…。
戦争(この場合は、第二次世界大戦)を、私の肉親で経験したのは、今は亡くなった私の祖父母達だ。
祖父は戦地へ徴兵されて、鹿児島を南下してフィリピン・インドネシア・シンガポール・マレー半島と、亜熱帯の国々を中心に移動した。
今も実家には祖父が残した、戦地で撮影された写真がいくつか残っている。

戦争の怖さは、意外なことに祖父じゃなく祖母からほとんど聞かされた。
私の実家の周辺も爆弾を落とされて亡くなった人もいて、
空襲警報がけたたましく鳴る夜は特に、祖父と離れて生活していたから余計怖かった、って。
一方、祖父が話してくれた内容は、私が覚えている限りでは取り留めのない話題が多かったように思う。


スマトラのジャングルで虎と遭遇してこれを倒したこと、

-(この話を聞かされた当時は、この話は眉唾ものだと感じたけど、この時代の日本の兵隊の「カミカゼ」「特攻隊」などを考えると、あながちありえない話ではないかもしれない…。)-

脱腸して軍の病院に入院したこと、有名な歌手が慰問に来たこと、油田を掘りに行ったこと、
食料が尽きて現地で牛を盗んだこと、ドリアンを食べたこと…etc.

残された写真のうち何枚かは、写真の裏に紫色の丸いスタンプが押されているものがある。
祖母が生前教えてくれたことには、戦地から日本の家族に送る手紙や写真はすべて、
一度、軍の検閲にかけられて、このスタンプはそれを通った証しだそうだ。
祖母が祖父に送った写真も同じだった。


戦争は戦地へ行った男性だけのものじゃなくて、帰りを待っていた人達にも戦いはあった。
祖母はそう言いたかったんだろう。

2007/03/16

これがジンチョウゲの花

タイトル「これがジンチョウゲの花」の記事のみ、携帯電話からの初めての投稿。
3月6日の日記に書いたジンチョウゲの花の写真を送る。
去年、今くらいの時期に実家のジンチョウゲを撮影したもの。
うまく表示されますように。

卒業式

3月15日、二回目の卒業式を見送りに行った。
親にこのことを話すと、なんだか私の行動に対して、とても怪訝そうな口調で言葉を濁されてしまった。
まるで私に慎みが足りないとでも言いいたげで、あんまりだと思った。

それはさておき…。


今年のゼミ生に、お寺に上山する人はいなかった。
この人達が式にいないのは特殊な事情だから分かる。
だけど、卒業資格のある人全員が式に来てるわけではなかった。
みんな見えないとこで事情がそれぞれあるんだろうな。
でも、どこの大学もこんな感じでこれが普通なのかな?
今はこう思ってても、私も同じ立場になれば分かることがあるだろう。


ひとつ、うれしい知らせがあった。
前の日記で紹介したクラスメートが修行を終えて戻ってきた。
彼は同じ大学の院に進学するらしい。幸か不幸か、私も大学に残っている。
お互いの、春からの新生活が落ち着いたら会いたい。

2007/03/07

いくじなし

ここで、いろんなしがらみを、洗いざらいぶちまけたい衝動に駆られるときがある。
私は単純な人間なのに、どうして肝心なときに限って迷うんだろう。
そして、立ち止まってしまう。情けない。
四月から学校が始まるというのに、このままじゃ気持ちの切り替えが難しそうだ。
あぁ、もう…いかん、いかん!

ハッピーな気分になりたいと思えば思うほど、
その試みさえも単なる逃避にしか思えなくなって、自分自身が嫌になる。
私よりも人生経験・社会経験豊富な幼馴染の、
否応なしに私に現実をつきつける鋭い意見が、
時に恨めしく、時に残酷で、そして本当はありがたいはず…だ。

そういえば年末も、叔父との電話で気まずくなったことがあって、
当時の私の気持ちは、今の気持ちにとても似ている。
そのとき叔父はとても酔っていて、私に対して、もっと痩せろ、と、しきりに言ってきた。
このときは、そのしつこさに頭にきて、冬は帰省しない旨をその場で勝手に決めて、
叔父に言い返してしまったので、私は後から親に怒られたのだった。
この出来事は、私がどう対処できるか、が問題だった。

結局、今年の冬は鹿児島に帰省しなかった。
鹿児島に帰省しなくても、私が今住む土地に嫁いでいる幼馴染によって、
私に別のたしなめがあったことは、
こういう苦い思いをすることは、私にとって避けられない運命だったに違いない。

私は一人暮らしをする中で、「誰にも迷惑をかけず、そして誰にも迷惑をかけられず」、
そんなことを望んでいたけど、 人が私にいろいろ言ってくるのも、
実は私が、心配という名の迷惑を周りにかけている証拠だ。

こんな綺麗事で、無理やり文末を締めようとするくらい、
今の私は “うそひーごろ” だ。(*うそひーごろ 鹿児島の方言。意味は「嘘つき」)

ここ(BloggerのBlog)は私の“個人的な庭”かもしれないけど、同時に公共の場でもある。
その自覚が、私の不満をこの場に完全には解き放たない。
でも、自分の気持ちを文章にすることは、自分にとって何よりの試練で、何よりのヒーリング効果かも。
これはほんと。

2007/03/06

みかん

散歩してると、柑橘系の果物のような、いい匂いがしてきた。
それは白い花で、つぼみの時は濃いピンク色をしている、ジンチョウゲという花の匂いだ。
私の実家にも、この植物の木が植えてある。
鹿児島では、2月の始めに花が咲いて、2月中に散ってしまう。

そういえば今年は、みかんを食べていない。
実家にいるときは、いつも、近所の人からみかんをたくさんもらっていたから気づかなかったけど、
スーパーで買うといい値段する。
スーパーでは、珍しくて形のきれいな柑橘類がたくさん置いてあるけど、
鹿児島にいたときにたくさん食べた不格好なみかんはやっぱり置いてない。

ザボン、ハッサク、ポンカン、デコポン、温州みかん、桜島小みかん…。
(大きい→小さい)
ビタミン!!
温州みかんは甘いけど、痛みやすくて味の当たり外れが大きい。
桜島小みかんは、世界一小さいみかんなのに果肉の中に種が多く入ってるのが憎い。
私はポンカンが好き。果肉が引き締まってて、酸味も甘みもちょうどよくて食べやすい。

最近、うわごとのように
「スーパーのじゃないみかんが食べたい…。 ツワ(「つわぶき(石蕗)」)が食べたい…。」
と、つぶやいて友人を困らせている。
この調子だと、四月には道端のつくしをむしり取ってしまうかも。
砂糖としょうゆで味付けて炒めるんだ。

2007/03/02

プラスチックの二十代

先月、復学届を提出した。
届を出しに行った日は、スーツ姿の学生達がいっぱい集まってた。
就職企業説明会、という看板が立ってた。
今年は、スーツ姿の年下の子達を見ても、不思議と何も感じない。

初めて休学したとき(4年前)は、こんなんじゃなかった。
スーツ姿の同級生を見かける度、部屋で、わんわん泣いた。
あの頃は、休学してほっとしたのと同じくらい、将来に絶望した。
初めての休学は、今思い出しても苦しい。
今は今で、別の苦しさがあるけど、もうあの頃の悔しさ、悲しさ、痛み以上のものを感じない。
強くなったんでもなく、弱くなったんでもなく、きっと私はずるくなった。


感性も変わった。
昔、あんなに感動して必死に集めた洋楽達も、今聴いても心に響かない。
歌詞の意味とか音色の深さとか、自分なりに解釈もしなくなって、
その歌の持つ美しさが分からなくなった。


今は、メロディーが覚えやすくて、歌手が歌ってる映像を見ると一層楽しめて、
何も考えないで、聴くだけで無条件に気分も体も高揚できる曲を求めてる。
幼い頃に好きだった「光GENJI」というアイドルグループの歌のように。
たとえば彼らのヒット曲「パラダイス銀河」。その歌の中に、

しゃかりきコロンブス 

という歌詞があるけど、「しゃかりき」って何? なんて、細かいことは気にしない。


歌も人生も、ひょっとしたら今の私には、
意味とか理屈で考えるんじゃなくって、 雰囲気を味わうだけで充分なのかもしれない。