「今年は誰かと仲良くなれるかなぁ」なんて、のんきなこと言ってられない。
「誰でもいい、盗めるものは何でも盗んでやる!(主に学内の情報ね)」くらいの気持ち。
私の気持ちはそのくらい殺伐してるけど、
今日の昼、登校途中に撮ったこの写真みたいな風景を見ると、とても癒される。
このあと、チョウチョがすぐ逃げてしまった。
まさに、この瞬間はシャッターチャンスだった。
パソコン上にアップされる画質は、今回も悪いだろうな。
今度の給料でデジカメ買おう…。
私の気持ちはそのくらい殺伐してるけど、
今日の昼、登校途中に撮ったこの写真みたいな風景を見ると、とても癒される。
このあと、チョウチョがすぐ逃げてしまった。
まさに、この瞬間はシャッターチャンスだった。
パソコン上にアップされる画質は、今回も悪いだろうな。
今度の給料でデジカメ買おう…。
今日は、バイト同士で年齢の話題が出た。
私以外にも、22歳以上の人が何人かいるらしい。
この話題に対して、さっそく自らカミングアウトした人もいたけど、私はできなかった。
条件が該当する他の人と違って、私は軽蔑されるのが恐くて、始終黙ったままだった。
学校という場所は、幾通りもある社会から見れば、特殊な世界なのかもしれない。
全日制の(日中に通う)大学の場合、ほとんどの人が18歳で入学して22歳で卒業する。
私のように周囲と年齢が違うことに対して負い目を感じたり、
逆に、人々が一歳でも自分達と年齢が離れている人に対して、何となく距離を置いて接したりするのは、
日本に限った現象なのだろうか?
去年、私が見学させてもらった、うちの大学の中の留学生だけを集めた学科には、
いろんな国の、年齢もそれぞれ違う学生達がいた。
今年の1月19日、私は彼らの卒業パーティに行った。
そのパーティが終わった後、私は彼らの前でいきなり泣いてしまった。
当時、私は彼らに自分の近況を話した際、周囲との年齢差があることについての悩みを、思わず打ち明ける展開になった。
すると、
「なんでー(そんなこと気にするの)?私たちのクラスで一番年上の人は、一番若い子より10歳以上年齢が離れてるけど、私達みんな仲良しだよー。」
と、言われた。
確かに、彼らの授業はアットホームな雰囲気で、昼食時間も仲良くみんなで食事をしていた。
それは、日本人同士の「仲良し」とは少し違う感覚なのかもしれない。
彼らにとって他人とコミュニケーションは、死活問題に関わる重要な能力だろう。
現在私も、学内で関わる人を選り好みできる立場じゃない。
たとえ、もし相手が私の年齢を知って戸惑ったとしても。
この記念日を私は大学に入学してから知った。
ただし他の学生達は、高校時代も仏教系の学校出身だったり、実家がお寺の人などは、
こういった行事には入学前から馴染みがあったみたいだ。
当時の私は、この時点で他の子達より大きく出遅れていることに、不安を覚えていた。
この土地に来て、今まで、非日常的で滅多に触れる機会のなかった風景が、とても日常的なものになった。
お坊さん先生や僧籍を目指す学生達の存在、座禅を組むためのお堂…etc。
それらは、日本の伝統(の一部)そのものなのに、私にとって目新しい発見ばかりだった。
国内で異国(にいるような感覚)を感じた。
今日の風呂あがりはフルーツ・オレを飲んだ。やっぱり、牛乳系の飲み物に限る。
日渡早紀原作の「ぼくの地球を守って」。
これは、テラと同じく少女漫画が原作。
今回の「テラ」の冒頭で、主人公が夢に出てくる人物に同化する場面があったように、
こちらの作品も、主人公の少女が宇宙を舞台にした夢を見て、
その夢に登場する人物の一人に、彼女の意識がシンクロしていく。
やがて、「確実に地球ではない、どこか」が舞台の同じ夢を見続けているという仲間達が、彼女の前に現れる…。
「ぼくの地球…」で主人公達が共有していた世界(夢)は、結果として、彼ら自身の前世の記憶だったのだけど、
「地球(テラ)へ…」の主人公・ジョニーが見た夢は、これからの展開にどう生かされていくだろうか。
こちらも、「ただの夢」ではなさそうだ。
今日の作品を見た第一印象は、主人公の容姿が「サイボーグ009」(石ノ森章太郎の作品)に似てる気がした。
主題歌と共に流れるオープニング映像からは、
手塚治虫の「火の鳥」みたいに壮大な物語を期待できそう。
「BOOK OFF」(古本の販売や買い取りをやっているお店)で、原作を探してみるか。
数日前(3月の終わり)、家のポストに一枚のチラシが投函されていた。
そこに書いてあったのは、4月2日は何の日か知っていますか?
という内容から始まって、読み進めてみると、イエス・キリストの命日だ、と書いてあった。
ちなみに、このチラシの連絡先は、キリスト教系の宗教団体のものだった。
日本では、彼の誕生日(クリスマス)はよく知られていて馴染みがあるけど、
私は、彼の命日をこのチラシで初めて知った。
私たちがクリスマスを特別な日と感じる一方で、
このチラシをくれた彼らは、彼らなりの聖書の解釈から、
彼の誕生日が本当に12月25日だったんだろうか?と疑問を抱いているようだ。
私が「当たり前」と思っていることも、別の場所では違う解釈がなされている。
この分野を専攻に選んでもまだまだ、新しい発見や驚き、そしてとまどいが多い。
政治と宗教の話は、軽々しく人前で話さないほうがいい、と言われる。
私も家族からそう言われて育った。
この分野を専攻に選んだことで、皮肉にも悩みが増したときもあった。
今でも、このたぐいの話を話題に出すのは、とても緊張する。
私が宗教や伝統に対して感じたことを、すべてありのままに話すのは完全な罪だ。
だけど、話してもさしつかえない、と自分なりに考えた範囲で、
これからの記事にこの分野を取り入れることを、どうか許してください。
帰宅してから、あのチラシを再び確認してみた。
なぜか胸騒ぎがしたから。
4月2日は「彼の命日」ではなく「彼の死を追悼する日」、だった。
「今年はイエスの死を記念する式が、4月2日、月曜日の日没後に行われます」(チラシの原文引用)
と、ある。
私に読解力がなかったm(__)m ごめんなさい
そして今日、去年に仲良くなった留学生が引っ越した。
彼については、また今度に記事を書こう。
最近は、卒業式がこの前あったばかりで、
この季節は別れもあるけど、また新しい出会いもやってくる。
今のバイトで、同じ学科の、学年の違う人と知り合いになった。
先生からメールきた。
「あの彼」(出家した)に会ったそうだ。私も早く会いたい。
久しぶりにバイトができるのがとても信じられなくて、
昨日の晩は、ワクワクしっぱなしで、なかなか眠れなかった。
ここまで体調が回復できて良かった。
そして、このささいな喜びをここで報告できることが、更にうれしい。
私はとても励まされたから前進することができた。
この「特別なありがとう」を、ある人に捧げる。
今月15日、私はお祝いと一年間ゼミで過ごしたお礼を伝えに学校へ行った。
私と彼らには心理的な距離があったことは認める。
見返りを求めてたわけじゃないけど、見返りがなければないで寂しく感じたことが、なんだかやりきれない。
私が冒頭の友人を特別に感じるのは、行動と本心が伴っていて裏表がないから。今も昔も。
彼女は、いじわるな冷やかしや嫌味を言わない。人を適当にあしらったり見下したりもしない。
たとえ、彼女自身が不本意な扱いを受け続けても、それを他人に仕返すことはなかった。
ただ、みんなと仲良くなりたかったから、どんな形であっても話しかけてもらえたことがうれしい、
と彼女が私に言い切ったことが忘れられない。
言ったもん勝ちの、えげつない世の中にがっかりすることもたくさんある。
考えるだけ苦しいのは分かってる。
彼女と同じ教室で過ごした昔、個人と周囲の決して交わることのない思いを目の当たりにした。
私はその光景を受け入れることができなかった。
今の学校で、このやりきれない思いに対する教えを乞いたいと思った。
この選択は正しかったのだろうか、と、今も気持ちはくじける。
でも、高校時代に今の学校を見つけられなかったら、私は一番望まない世界に身を置いたままだった。
心を殺しながら生きることは、死んでるのと同じ。
少なくとも高校時代、私は死んでた。
現在も、その時代に気持ちが戻ることがある。
本当の自分を取り戻したい。
明日は、四月からの授業についてオリエンテーションが行われる。
来月2日から本屋でバイトも始まる。
時間もある今のうちに、いろんな気持ちを書き留めておこう。